*持込み無し
わが国における商業放送の歴史をひもとくと、(1) 年九月に、中部日本放送 (名古屋)、新日本放送(大阪)が民間のラジオ放送局として開局しており、 これが商業放送のはじまりであった。また、テレビ放送をみると、 その前年の十一月から NHK が毎週定期的に実験放送を開始している。 NHK が東京で本放送をはじめたのは、(2) 年二月のことである。 最初の民放テレビはこれに少し遅れ、(2) 年八月に (3) が開局している。
(4) の (5) はこの民間テレビ放送の開局を推進した一人であった。 だが当時は、東京のサービスエリアにテレビ受像機の台数は三千台ほどしかなかった。 そこで (5) はいろいろな盛り場の街頭にアメリカから購入した大形テレビ二百台を設置することにより、実際の視聴者数の大幅な増加をはかった。 この「街頭テレビ」は人びとにテレビの面白さを教え、テレビ受像機の普及に貢献することになる。一九五五年から一九六〇年にかけて全国の主要都市にテレビ放送局が開設され、テレビ放送のネットワークは全国をおおっていく。そして一九五九年の「皇太子御成婚」報道はテレビ受像機が大衆に普及するきっかけとなったのである。
電波メディアによる広告(CM: コマーシャル・メッセージ)は民間放送の開始とともにはじまった。ラジオのスポット CM は新日本放送によって放送された「(6)」が最初で、ミニ・ドラマ形式が用いられた。またラジオ CM ではコマーシャルソングが注目を集めたが、その記念すべき第一号は作詞作曲が (7)、歌は灰田勝彦による「ボクはアマチュア・カメラマン」(小西六写真工業)であった。
テレビ CM のレギュラー第一号は、(2) 年八月二八日正午、(3) による (8) の「時報スポット」だったが、これは手違いがあって数秒で中止となった。だが、テレビ媒体への広告費は伸び続け、一九五九年に (9) のそれを上回る。また一九七五年にはテレビは (10) を抜き、広告媒体の一位となるのである。アメリカでは一九三一年にテレビの試験放送が開始されている。本放送は NBC と CBS などにより一九四一年七月に開始されている。